自由って何か、勝手に決めすぎてる件。
なんだか、わたしはこれまで「自由」を勘違いしてたな。
勘違いというか、「自由」をすごくすごく狭い、針の穴を通すほど狭いことだけを指すことばに使っていたことに最近きづいた。
自由とは、お金があること。
だって、お金がないとあれも買えないしこれも買えない。
旅行にも行けないし、これも手に入らない。
つまり「不幸」だな。
と思っていた。
もうずっとずっと、ずーーーっとそうやって思って生きてきたし、それを疑えと言われても「疑うって、どこを?どう考えてもそうしか考えられなくない?!」とまで思っていた(笑)。
だから、いくら仕事を辞めたくても「辞めたらお金がなくなるし、そしたら自由が奪われれるし(←すごい表現w)」ってずっと思って堂々巡り、勝手に「わたしは八方塞がりです」って謎に悲しい顔してた。
お金がない = 不幸
の図式が完全に出来上がっていたけど、そう計算式を設定したのも紛れもなくわたし自身だった。
いろんな自己啓発の方法の中で、これまでにも何度も何度もわたしの「自由」の定義づけがハードすぎるなと感じることもあったけど、どうしても「自由とは、息をすることだ。だから私はもう自由だー!!」とハードルを下げるだけでは腑に落ちなくて(笑)。
本当に本当に何度も何度もその壁に当たりながらいたんだよね。
でも、最近ふっとつながったことがあって。
目の前に欲しいものがあるとする。
それが買えること = 自由 と思い込んできたけど、
本当はもっともっともーーーっと手前のところから自由は始まってるんだわ。
目の前に欲しいものがあるとする。
それを買うと決めるのも自由、買わないと決めるのも自由。
買おう!と決めた時に、さっとお支払をするのも自由、「あーでもこれ買ったらお金減るなー、、ごにょごにょ」ってウニウニしてから買うのも自由。
とりあえず、
それが買えること = 自由 ではなかったんだ。
そのもっと前から自由はもう始まってた。
買うも買わないも自由。
好みで変えたらいいところなだけだった。
買えること = 自由 ではなかった。
わたしがやるべきことは、「あ、もう自由ってだいぶ前の段階からはじまってたわ」って気づくことと、「欲しいものに思いっきり手を伸ばせるわたしでいよう」と、そう決めることだけだった。
決めたらあとは宇宙の法則にお任せするだけ。
本当に、お任せするだけでいい。
買えることが「自由である」ことではなかった。
買えることが「自由である」ことではなかった。
買えることが「自由である」ことではなかった。
一体何年、わたしは目の前の自由を垂れ流ししてたんだろう。
そして一体何年、何を追いかけてたんだろう。